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「襟裳岬」(えりもみさき)は1974年1月に発売された森進一のシングルである。 == 解説 == 作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表する黄金コンビによる作品である。 日本ビクターの創立五十周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった一周年記念として特別企画された内の一曲。同社の看板歌手十人―森進一、フランク永井、松尾和子、三浦洸一、鶴田浩二、青江三奈、橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようというアィデアであった〔猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。〕。 これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時高橋卓士)の案が採用された。高橋が、拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたが、当初はB面扱いだった。当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、当時森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた拓郎からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して発売した〔日刊ゲンダイ、連載 森進一「人生ひたすら」2007年4月10〜13日。〕〔長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203。〕〔アサヒ芸能、徳間書店、2009年6月25日号、p36-39。〕。 累計では約100万枚〔読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、313頁。ISBN 4390116010〕のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、森の喜びようは尋常ではなかったという〔猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。〕。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で4回目の白組トリおよび初の大トリを飾った。奇しくも紅組トリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった〔森版の「襟裳岬」が出るまでは「襟裳岬」といえば、この島倉版であったが、その後全くその位置が逆転してしまった(池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35)。〕〔当初、島倉は紅白で未歌唱のデビュー曲「この世の花」を歌唱する予定だったが、森に対抗するため「襟裳岬」に変更した(合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』。「この世の花」は1982年・第33回で初披露が実現)。〕。また、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま舞台に出るというハプニングがあった(間奏中、白組共演者たちに囲まれる中で締め直し、特に突っ込まれることなく進行した)〔、〕。 ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」〔岡本が訪れたのは2月で雪で真っ白だったため〕という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持ち、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった〔『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』312頁。〕が、やがて襟裳の知名度アップに貢献してそういった感情もなくなり、森はえりも町から感謝状を贈られた〔。1997年(平成9年)には、えりも町にこの歌の記念歌碑が建設された。 NHK紅白歌合戦で襟裳岬は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の第48回・2010年の第61回・2013年の第64回と、合計4度歌唱されている。また,2005年の第56回NHK紅白歌合戦の出場者選考アンケート「スキウタ」にも、「おふくろさん」と共にランクインした。 フォーク界との融合による本作の成功は、以後の歌謡曲界に大きな影響を及ぼした。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡曲・ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった〔nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー 〕〔歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ 〕〔鈴木啓之 『昭和歌謡レコード大全』 白夜書房 2003年 p183、長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、五木ひろし『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 日本放送出版協会 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView 東京書籍 2000年〕。 吉田拓郎も、1974年のアルバム『今はまだ人生を語らず』でセルフカバーしている。こちらは、森のようなこぶしやしつこさはなく、拓郎の代表曲「旅の宿」のようなテイストのフォーク調の歌い方になっている。また2002年のアルバム『Oldies』で再度セルフカバーした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「襟裳岬 (森進一の曲)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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